およそ110年前の1896年、日本は台湾の統治を開始した。化外の地と言われた台湾を清から割譲し、国土調査、都市計画をし、インフラストラクチャを整備し、教育を行き渡らせ今日の台湾の礎を築いた。その過程でその地に初めから住んでいた原住民、漢人との衝突を経て世界に恥ない植民地を築いていった。通常、植民地政策はその地に生産現場を作り搾取をして、植民地に住む人には如何なる投資を行わないのが通常である。そういう意味で台湾における植民地政策は稀に見る成功した例と言えるだろう。
こう言った文章は日本の旅行ガイドブックやちょっとした台湾に関する書籍にはこう書かれていることだろう。確かに辺りを見渡すと特に台南、この地には当時の日本の建築物が残されている。戦後もしも、台湾の人々が本当に日本の事を良く思っていないのなら、今頃これらの建築物はすでに無くなっていたことだろう。台湾の人々は確かに日本人に対して本当に親切だ。当然全員とは言わないが、これほど友好的な国は無いのではないか。街を歩いていても、私の台湾国語の発音に違和感を覚えた台湾の人はすぐに私を日本人と見抜き、日本語を駆使して私に話しかける。今でもこうして日本語を自発的に使ってくれる、さらにこれほど流暢に話してくれるとは、以前この地に住み日本という国の形を台湾の人に伝えた日本人そして今でもそれを守ってくれている台湾の人にはに本当にありがたい事である。
私は今年で台湾に来て満6年になる。大学生活をとおして台湾の事をもっと知りたいという気持ちが増えてきた。その間にこの地に関する資料に目を通し自分なりに観察し台湾に対しての見方が備わってきた。ただ、その見方が本当に正しいものなのであろうか?日本がこの地に造ったモノは確かに立派なものだっただろう。だけれどこれまで未だに見えないものが有った。それは清の時代から日本が統治を開始した時の過程、そしてそこに暮らす人々がどのように日本政府が作成した都市計画と当時生活していた街と適応させて暮らしていったこう言った部分に興味を持っていった。日本でも古い街区を新しい基準に基づいて街区整理を行う。街は整然とし安全、快適な生活を営むことを新しい都市計画から提供されたのだろう。ただ、以前にあった生活との関係を無視して都市を作るというのはそこに住む人には迷惑なだけであろう。人々が失うものと得るもののバランスを考慮して都市が造られたのだろうか?
私は今回台南を観察するに当たり、当時の地図を準備した。地図にはその当時の人々の営みを記録する力を持っている。文章と違い作者というフィルターが介在しない。当時の現況をあるがままに写すのが地図である。従い、私の観察方法には地図を重視し、書籍を重視しない。当時のあるがままの都市形状を自らの頭に入れ、観察、記録をしてひとつの成果を納めようと考えている。地図から見えてくる当時の都市計画の過程、そして現在の街の形。これらを一つ一つ丁寧に記録していこうと思う。そこに住む人々の記録を収めることがことが出来れば、一つの成功と捉えようと思う。ひとりでどれだけの成果を作ることが出来るのか不安ではあるが、楽しみでもある。
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